亚洲国产日韩欧美在线a乱码,国产精品路线1路线2路线,亚洲视频一区,精品国产自,www狠狠,国产情侣激情在线视频免费看,亚洲成年网站在线观看

日語(yǔ)副助詞的歸納總結(jié)

時(shí)間:2024-06-11 18:25:22 日語(yǔ)知識(shí) 我要投稿
  • 相關(guān)推薦

日語(yǔ)副助詞的歸納總結(jié)

  導(dǎo)語(yǔ):日語(yǔ)的副動(dòng)詞是由動(dòng)詞原型經(jīng)過(guò)一定規(guī)則的變位而來(lái)的,它類似于英語(yǔ)中的現(xiàn)在分詞,下面是YJBYS小編收集整理的日語(yǔ)副助詞的歸納總結(jié),歡迎參考!

日語(yǔ)副助詞的歸納總結(jié)

  基本述語(yǔ)型の中に現(xiàn)われる助詞、つまり格助詞は、述語(yǔ)の表わす事柄を補(bǔ)う

  ための補(bǔ)語(yǔ)を名詞とともに形作ります。言い換えると、述語(yǔ)と名詞との関係を

  表わす重要な役目を果たします。

  それに対して、これから見(jiàn)ていく副助詞は、事柄の內(nèi)容そのものを形作るの

  ではなく、それが付く名詞に対する話し手の何らかの評(píng)価や、そこに現(xiàn)われて

  いないその外の名詞を暗示するような働きを持っています。

  こういう説明のしかたでは、かえってわかりにくいかもしれません。具體的

  な例を見(jiàn)てみましょう。

  男の人[が]來(lái)ました。

  男の人[だけ](が)來(lái)ました。

  男の人[しか]來(lái)ませんでした。

  男の人[ばかり]來(lái)ました。

  男の人[も]來(lái)ました。

  男の人[さえ]來(lái)ました。

  [ ]をつけたものが副助詞です。これらの文は「男の人が來(lái)た」という基本

  的な事柄そのものは共通しています。それぞれの違いは、この事柄に対する評(píng)

  価・見(jiàn)方の違いと言えばいいでしょうか。

  例えば、「Nだけ」の場(chǎng)合は、來(lái)た人は全部男で、「女の人」が來(lái)なかった

  ことを示しています。しかしそれは「男の人が來(lái)た」ことには変わりありませ

  ん。

  別の言い方をすれば、この場(chǎng)面を?qū)懻妞摔趣盲郡趣工毪、「男が」と「男?/p>

  け」の違いはその畫面では表わせません。同じ事実の、話し手によるとらえ方

  の差なのです。

  「Nしか(~ません)」になると、述語(yǔ)が否定になることと、意味的にも否

  定になって「女の人」が來(lái)なかったことを殘念に思うような意味合いが出てき

  ます。

  「Nばかり」は全部男だったこと。そしてやはり女の人が來(lái)なかったことを

  殘念に思っているようです。

  「Nも」と「Nさえ」はこれまでものとは違って、「女の人が來(lái)た」ことを

  暗示します!窷も」は女の人プラス男の人、で、「男の人が來(lái)る」ことが多

  少予想外だったことも表わします。「Nさえ」になると、その「予想外」の気

  持ちが更に強(qiáng)くなります。

  以上の例文は、主體を示す「男の人が」に副助詞を付けた場(chǎng)合(「が」は省

  かれる)ですが、外の種類の補(bǔ)語(yǔ)や數(shù)量に付けると、意味合いや使い方の制限

  が違う場(chǎng)合があります。それらの一つ一つを、これから少しくわしく見(jiàn)ていきましょう。

  副助詞は以上にあげた外に、「Nなど」「Nほど」「Nでも」「Nぐらい」

  「Nまで」「Nこそ」などがあります。

  「Nも」は用法の広い助詞です。ここでその用法をまとめておきます。特に數(shù)量に

  関する用法が微妙です。

  「Nは」の本來(lái)の役目は「主題」を示すことですが、副助詞としての用法もあります。

  他との比較のためにここでとりあげ、特に數(shù)量に関する用法に觸れます。

  18.1.2 副助詞と格助詞の重なり方

  副助詞はいろいろな補(bǔ)語(yǔ)につきます。その時(shí)、格助詞と重なるわけですが、

  その結(jié)果どうなるかには、三つの型があります。

  a 格助詞が消える場(chǎng)合 彼しか來(lái)なかった(彼が來(lái)た)

  b 格助詞の後につく場(chǎng)合 彼にしか話さなかった(彼に話した)

  c 格助詞の前につく場(chǎng)合 彼だけが來(lái)た(彼が來(lái)た)

  b、cの場(chǎng)合は、格助詞が省略できることもありますが、aの場(chǎng)合は必ず削

  除されるという點(diǎn)が違います。

  ×彼がしか(×彼しかが)來(lái)なかった

  あそこしか行かなかった(あそこにしか行かなかった)

  彼だけ來(lái)た(彼だけが來(lái)た)

  b、cのどちらにもなる組み合わせもあります。

  彼にだけ話した

  彼だけに話した

  この格助詞の省略・位置という點(diǎn)についても注意して見(jiàn)て行きましょう。

  では、副助詞の一つ一つを見(jiàn)ます。まず「限定」の意味をもつものからはじめて、

  次に、程度・數(shù)量など、例示、強(qiáng)調(diào)、その他と進(jìn)んでいく予定です。

  Nしか(~ない):限定

  「Nしか」は必ず否定を要求するという點(diǎn)で特殊なものですが、初級(jí)のかな

  り早い時(shí)期から使われるものです。後でみるように「だけ」との使い分けが問(wèn)

  題になり、學(xué)習(xí)者の誤りの多いものでもあります。

  (機(jī)はなくて、)いすしかありません。(いすがある:Nが)

  お母さんしか來(lái)ませんでした。

  學(xué)習(xí)者がまずとまどうことは、述語(yǔ)が否定形になっているのに、否定されて

  いるのはそこに出ている名詞ではなく、そこにない、何か外の名詞だというこ

  とです。初めの例で言えば、「いす」はそこにあり、「ない(ありません)」

  のは「いす」以外の、例えば「機(jī)」だということです!袱袱丹螭筏珌(lái)なか

  った」というのは、「お母さんは來(lái)た」のですが、この文で主に言いたいこと

  は「それ以外の人は來(lái)なかった」ということなのです。それ以外の人(例えば、

  お父さん)が誰(shuí)なのかは文脈によってわかることで、この文からはわかりませ

  んが。

  以上のことは、日本人にはまったくかんたんなことで、何が難しいのかわか

  らないような文型なのです(當(dāng)り前です。子供のときから毎日使っているので

  すから)が、初歩の學(xué)習(xí)者にとっては非常にわかりにくい、使いにくい文型な

  のです。ですから、彼らは「Nだけある/來(lái)る」などを使いたがります。

  いすだけがあります。

  お母さんだけが來(lái)ました。

  これでは、否定的な意味合いが薄れてしまいます。

  もう少し、主體以外の他の例を見(jiàn)てみましょう。

  鳥(niǎo)は水しか飲みませんでした!      (水を:Nを)

  いつも學(xué)校(へ)しか行きませんでした。 (學(xué)校へ:Nへ)

  ゴミはここ(に)しか入れませんでした。 (Nにしか)

  家の中でしか遊びません。 (Nでしか)

  直通電車はこの駅からしかありません。 (Nからしか)

  ここまでしか進(jìn)みませんでした。 (Nまでしか)

  格助詞の現(xiàn)われ方を見(jiàn)ると、「が」「を」は必ず削除され、「へ」や「に」

  は省略してもしなくてもよく、「で」や「まで」は省略されるとわかりにくく

  なります。そして、いつも格助詞より後にきます。

  數(shù)量についた場(chǎng)合は、それが(必要量・予想した量より)少ない數(shù)・量である

  ことを示します。

  100円しかない。(100円あるが、それはとても少ない)

  10分しか続きませんでした。

  5階までしか上がりません。

  使える文型は動(dòng)詞文と「ある」の否定の「ない」だけのようです。形容詞文

  は不自然になります。

  ?今日のおかずの中では、これしかおいしくないです。

  (cf. これがおいしくないです)

  ?今月は日曜日しか暇ではありません。(cf. 暇がありません)

  ×家族の中で、私しか健康じゃない/背が高くない。

  (cf. 家族の中で私だけが 健康だ/背が高い)

  ×この中で、田中さんしか日本人じゃありません。

  (cf. この中には、田中さんしか日本人はいません。)

  比較の文型で、數(shù)量につけば形容詞でもいい場(chǎng)合があります。

  安いと言っても、たった100円しか安くない。

  今日はずっと早いと思ったが、昨日より20分しか早くない。

  Nだけ:限定

  「限定」の働きをもちます。その名詞以外のものはそうでなく、その動(dòng)作・

  現(xiàn)象がその名詞に限って當(dāng)てはまることを表わします。まず、動(dòng)詞文の例をい

  くつか。

  彼だけ(が)來(lái)ました。

  パンだけ(を)食べました。

  彼にだけ/彼だけに 話しました。

  銀行(へ)だけ行きました。(?銀行だけへ)図書館へだけ行った

  銀行(に)だけ行きました。(?銀行だけに)図書館にだけ行った

  あの人からだけ返事が來(lái)ました。(あの人だけから)

  ここ(に)だけ/ここだけに 入れました。

  ここ(で)だけ/だけで 買います。

  「彼だけが來(lái)た」は、「彼が來(lái)た」ことと、「他の人は來(lái)なかった」ことを

  述べています。どちらかと言えば、「來(lái)た」ことのほうに重點(diǎn)があります。そ

  こが「Nしか」との違いです。

  「だけ」は格助詞の現(xiàn)われる位置が特徴的です!袱埂袱颉工稀⑹÷预工

  ことができますが、現(xiàn)われる場(chǎng)合は必ず「だけ」の後ろです。

  ほかの格助詞は、多少の自然さの違いはありますが、前でも後でもいい場(chǎng)合

  が多いようです。意味に変わりはありません。

  ただし方法の「で」だけは意味が違います。

  a この薬だけで治ります。

  b この薬でだけ治ります。

  aはほかの方法は必要ない、といっていますが、bはほかの方法では治らな

  い、と言っています。

  a「この薬だけ(ほかのものは使わない)で治る」(手術(shù)をしたり、い

  ろいろやればもちろん治るかもしれないが)

  b「この薬で(この方法で)だけ治る」(手術(shù)してもダメ)

  ただし、bの場(chǎng)合は「しか」を使ったほうが自然な文になりますから、「Nで

  だけ」はあまり使われません。

  この薬でしか治りません。

  [數(shù)量についた場(chǎng)合]

  その數(shù)量より多くない、ということを表わします。含みとして、

  a「少ない」という場(chǎng)合と、

  b「ちょうど」(それより多くも少なくもなく)

  という場(chǎng)合があります!干伽胜ぁ工趣い莩证沥颏悉盲晔兢筏郡い趣、

  「しか~ない」を使います。

  「いくらありますか」「5千円だけ持ってきました」

  「ずっと勉強(qiáng)しましたか」「1時(shí)間だけ勉強(qiáng)しました」

  5千円しか持っていません。

  1時(shí)間しか勉強(qiáng)しませんでした。

  「5千円」が少ないかどうかは、その文脈で必要とされる量によります。

  また、「だけ」で特徴的なことは、その「數(shù)量」が、ある「全體の一部」で

  ある、という意味合いをもつことが多いことです。

  (會(huì)員は8人だが、)その夜は4人だけが來(lái)ました。

  (講演會(huì)を開(kāi)いたが、)?お客は5人だけ來(lái)ました。

  お客は5人しか來(lái)ませんでした。

  「4人」のほうは、「8人」の中の「4人」です。「5人」のほうは、不特定

  多數(shù)の中の「5人」ですし、文脈からいかにも少ないという狀況であることが

  わかるので、「しか」のほうが適當(dāng)です。

  數(shù)量の場(chǎng)合に「ちょうど」の意味にもなるように、分量を表すような表現(xiàn)に

  ついた「だけ」は、「ちょうどその分」の意味になり、「少ない」という意味

  合いはありません。例えば、

  これだけください。

  の「これ」が一つのものを指せば、「外のものはいらない」という限定の意味

  になりますが、手にたくさん抱えた狀態(tài)で「これだけ~」と言えば、「ちょう

  どその分」というような意味になります。

  必要な量だけ持っていきました。

  「それ以上は持っていかなかった」という意味での「限定」はありますが、

  「少ない」という意味合いはありません。

  いすはちょうど人數(shù)分だけありました。

  いすの數(shù)だけお皿を出しました。

  「~と同じ數(shù)・量」です。

  [形容詞文・名詞文]

  「だけ」は「しか」と違って、形容詞文・名詞文でも使えます。

  これだけが特に難しいです。

  おばあちゃんだけがいつも元?dú)荬、かぜもひきません?/p>

  彼は若い女性にだけ親切です。

  この中であの人だけが日本人です。

  [だけだ・だけで・だけの]

  「だけ」は補(bǔ)語(yǔ)について連用修飾になるだけでなく、「だ・です」を伴って

  名詞文の述語(yǔ)となることができます!窷だけのN」の形にもなります。

  會(huì)員は留學(xué)生だけです。

  まちがいは一つだけです。

  この仕事は今日だけで、明日はありません。

  留學(xué)生だけのクラス   今日だけの仕事

  「~のはNだけだ」の形もよく使われます。(→「57.5 強(qiáng)調(diào)構(gòu)文」)

  來(lái)たのは彼だけです。

  かばんに入っていたのはパンだけでした。

  [「だけ」と「しか」の違い]

  この二つの違いはよく議論になります。英語(yǔ)の「only」に當(dāng)たる言葉を「だ

  け」と覚えてしまうと、「しか」を使うべきところでも「だけ」を使うように

  なってしまいます。また、「しか」は述語(yǔ)を否定にしなければならず、その分

  面倒なので「だけ」のほうが使いやすいということもあるでしょう。

  基本的には、「だけ」は肯定的、「しか」は否定的、と言う違いがあります。

  (まだ)半分だけある。(だから大丈夫だ)

  (もう)半分しかない。(だからだめだ)

  つまり、「だけ」は「ある」ことを述べ、「しか」は「ない」ことを述べます。

  また、「だけ」は肯定文にも否定文にも使えます。

  彼女だけ來(lái)た。

  彼女だけこなかった。(他の人はみんな來(lái)た)

  彼女しかこなかった。

  「だけ+否定」の表す意味は、「しか」ではそのままは表せません。

  最後の問(wèn)題だけできなかった。(一つできなかった)

  最後の問(wèn)題しかできなかった。(一つできた)

  cf.最後の問(wèn)題しかできないのはなかった。(一つできなかった)

  すでに見(jiàn)たように、「だけ」は形容詞文や名詞文にも使えますし、「だ・で

  す」の前でも使え、用法の広がりが「しか」に比べてずっと広いことが特徴で

  す。

  「だけ」は述語(yǔ)を受けることもできますが、それは複文のところで扱います。

  (→「53.程度・比較・限定」)

  「だけ」に近い意味の「Nのみ」という形があり、書きことばで使われます。

  この土地でのみ行われる  殘るは彼のみだ  神のみぞ知る

  Nばかり:限定

  「だけ」に意味が近く、あることに該當(dāng)するのはその主體・対象などに限ら

  れて、ほかのものはそうでないことを言います。が、「だけ」が該當(dāng)するもの

  が限定されていて、少ないような意味合いであるのにたいして、「ばかり」は

  該當(dāng)するものはすべてそうである、という意味合いです。繰り返しが暗示され

  ることもあります。

  私ばかり(が)しかられます。

  ごはんを食べないで、おかずばかり(を)食べます。

  テレビばかり見(jiàn)ています。 cf. テレビを見(jiàn)てばかりいます。

  女の子とばかり遊びます。

  映畫にばかり行きます。

  このおもちゃでばかり遊ぶのです。

  株のセールスマンは「絶対大丈夫」とばかり言います。

  特に次の形では「全部がそうだ」という意味合いが強(qiáng)く、「だけ」は使えま

  せん。

  文法の本を読むと、知らないことばかりです。

  あの山の頂上は巖ばかりです。

  「が」と「を」の前に來(lái)る外は、格助詞の後ろに付くのがふつうです。

  形容詞文、名詞文の補(bǔ)語(yǔ)には付きにくいようです。

  ?彼ばかりがいつも暇です/病気です。

  「だ・です」の前にも來(lái)ます!袱肖辘巍工涡韦猡ⅳ辘蓼。

  會(huì)員は男の人ばかりです。

  會(huì)場(chǎng)は有名な人ばかりで、ちょっと緊張しました。

  噓ばかりの証言   貴重本ばかりの書庫(kù)

  數(shù)量のあとに付けてだいたいの量を表わします。「ぐらい」と同じような使

  い方ですが、書き言葉的です。実際に數(shù)量がはっきりしなかったというより、

  表現(xiàn)を柔らかくするために數(shù)をぼかして言う言い方としてよく使われます。

  3日ばかり旅行をしました。

  20人ばかりいました。

  述語(yǔ)を受ける用法は、複合述語(yǔ)と複文のところで扱います。

  今著いたばかりです。(→「24.10 V-たばかりだ」)

  ただ借金が増えるばかりだった。(→「53.3 限定」)

  Nぐらい(くらい):程度

  Nが比較の基準(zhǔn)となり、あるものがどの程度のものであるかを示します。使

  われる文型によって意味合いが少し違います。

  「Nと同じぐらい」の意味で、そう言い換えられる場(chǎng)合。比較の文型につな

  がる言い方で、形容詞文や様子を表す動(dòng)詞文の場(chǎng)合、「だ・です」が続く場(chǎng)合、

  「NぐらいのN」の場(chǎng)合です!窤ぐらい~Bはない」の形で、「Aがいちば

  ん~」を表します。

  これ(と同じ)くらい重いです。

  休みの日と同じぐらい暇です。

  大雨の日の川(と同じ)ぐらい濁っています。

  私の犬も、大きさはこれ(と同じ)ぐらいです。

  あなたのぐらいの車が欲しいですね。

  ここはちょうど野球場(chǎng)ぐらいの広さがあります。

  あれぐらいの大きさで、赤いカバンはありませんか。

  彼女くらい頭のいい人はいない。(彼女がいちばん頭がいい)

  あの人ぐらい勉強(qiáng)すれば、何でもわかるでしょう。

  指示語(yǔ)の「-れ」「-の」の両方に付けられます。副助詞はふつう「-れ」

  に付くので、この點(diǎn)は例外的です。

  長(zhǎng)さはこのくらいです。

  どのくらい  どれくらい  (×どのだけ、×どのほど)

  動(dòng)詞文の補(bǔ)語(yǔ)に付く場(chǎng)合、「最低限」という意味合いがあります。特に、可

  能を表す述語(yǔ)の場(chǎng)合、その名詞に対する低い評(píng)価があります。

  私だって新聞ぐらい読みますよ。(難しいものは読まないが)

  休みの日でも、警備員ぐらいいるでしょう。(いるはずの人間として

  最低限警備員は。職業(yè)に対する評(píng)価ではありません。念のため。)

  彼にぐらい知らせておいたら。(少なくとも彼には知らせるべき)

  日曜日ぐらい家にいてよ。(外の日はともかく:妻が夫に)

  お茶ぐらい出しなさいよ。(食べ物はいいから)

  この問(wèn)題ぐらい、私にもできますよ。(やさしい問(wèn)題)

  ひらがなくらい読めるでしょう。

  ちょっとぐらい待てないの。(長(zhǎng)く待てとは言わないけれど)

  以上の例は「Nだけは」と言うこともできます。

  私だって新聞だけは読みますよ。(外のものは読まない)

  彼にだけは知らせておいたら。(他の人はいいけど)

  けれども、やはり意味合いの違いははっきりあります。「だけ」は特にそれ

  を取り立てていますが、「ぐらい」は、當(dāng)然のこととして軽く言っています。

  次の例はちょっと特別です。

  できたのは彼女ぐらいだ。(彼女だけだ)

  この例は、いわゆる「強(qiáng)調(diào)構(gòu)文」ではありません!×彼女ぐらいができた」

  という形にはなりませんから!浮挨椁い韦猡韦馈工趣いπ韦猡ⅳ辘蓼。

  複文の中の例を一つ。

  これぐらいやっておけば大丈夫だろう。

  これだけやっておけば大丈夫だろう。

  それぞれ単文として獨(dú)立させると意味が違います。

  これぐらいやっておこう。

  これだけやっておこう。

  「ぐらい」のほうは、最低限、という軽い気持か、あるいは、目の前にある量

  があって、だいたいそれと同じぐらい、という場(chǎng)合です!袱坤薄工韦郅Δ稀

  他のものはやらずに、という限定の気持です。

  複文になると、「だけ」のほうが二つの意味になります。限定の意味と、け

  っこう大した分量をやった、だから大丈夫だ、という意味にもなります。

  [數(shù)量+ぐらい]

  「ぐらい」が數(shù)量につく場(chǎng)合は、「だいたい」の意味になります。

  今から1時(shí)間ぐらいかかります。

  長(zhǎng)さが10mぐらいあります。

  街頭で何かの募金を頼まれたとき、

  百円ぐらい出さないと、みっともないかな。

  と言うと、「最低限」および「百円」にたいする低い評(píng)価を感じますが、

  百円ぐらい出せばいいかな。

  と言うと、「だいたい」の感じでしょうか。

  動(dòng)詞を受けて節(jié)になる場(chǎng)合は「53.1 程度」を見(jiàn)て下さい。

  Nほど:程度

  程度を表し、形容詞文で多く使われます。単文では「N+ほど」は否定とと

  もに使われるのがふつうです。比較の構(gòu)文の否定の形です。(→ 17.1)

  今日は昨日ほど暑くないです。(×今日は昨日ほど暑い)

  中國(guó)語(yǔ)は英語(yǔ)ほど上手ではありません。

  今年は去年ほど事件がありませんでした。

  日本酒はビールほど飲みません。(ビールを)

  「Nに」には付きにくいようで、あまり自然な言い方とは言えません。

  母は私には弟にほどやさしくありませんでした。

  指示語(yǔ)の「-れ」の形に付きます。(「このほど」は別の意味)

  私のカバンはこれほど重くないです。

  「それほど」は「それ」が具體的なものを指さず、「そんなに」の意味になる

  場(chǎng)合がよくあります。

  日本語(yǔ)はそれほど難しくないです。

  「Aほど~Bはない」の形で「Aはいちばん~」を表します。

  あの人ほど親切な人はいない。(いちばん親切だ)

  彼ほどの人はいない。(じょうずな人はたくさんいる。しかし、~)

  引用の形では否定が主節(jié)の述語(yǔ)に現(xiàn)れることもあります。

  これほど難しいとは思わなかった。(これほど難しくないと思った)

  複文の従屬節(jié)の中では、否定がなくても使われます。

  あの人ほど頭がよくても、間違えることはあるんですね。

  あれほどがんばったのだから、きっと優(yōu)勝するだろう。

  彼ほどの人でもまちがえる。

  述語(yǔ)を受ける用法は複文として扱います。(→「53.程度・比較・限定」)

  この問(wèn)題は誰(shuí)もできないほど難しいです。

  「それほど」の「それ」が前の文を受ける場(chǎng)合は、否定の述語(yǔ)でなくても使

  えます。述語(yǔ)を受けて極端な程度を表す用法になっています。

  この問(wèn)題は誰(shuí)もできません。それほど難しいのです。

  このように前の文を受けるのは「連文」の文法です。

  「數(shù)量+ほど」の場(chǎng)合は、「ぐらい」より硬い言い方で、丁寧で書き言葉で

  す。否定とは特に関係ありません。

  ロープを5mほどください。

  參加者は百人ほどでした。

  お金が千円ほど足りません。

  Nなど:例示

  「など」と言うと、「NやNなど」の形で多くの物の中から例を挙げ、まだ

  ほかにもあることを暗示する、という用法がすぐ思いつきます。

  機(jī)の上には本やノートなどがあります。

  人の場(chǎng)合は丁寧ではないので、使わないほうがいいでしょう。

  田中や山田などが來(lái)た。

  これは接辭(接尾辭)としての用法で、副助詞としては、その名詞を一つの

  例として軽く言う言い方によく使われます。そこからまた、それを低くみる言

  い方にもなります。

  お茶などいかがですか。(←お茶はいかがですか)

  この辭書などが適當(dāng)でしょう。

  あいつの顔など見(jiàn)たくもない。

  この仕事はあの人などにはできません。(あの人になど)

  パチンコ屋へなど行ったこともありません。

  こんな仕事などは朝飯前だ。

  かなりくだけた話しことばでは「なんか」「なんて」も使われます。

  お茶なんかどう?

  あんなやつになんかやるな。

  お金でなんか買えないものだよ。

  あの人となんて絶対イヤ!

  これなんていいんじゃない?

  述語(yǔ)を受ける場(chǎng)合は複文のところで。(「→55.その他の連用節(jié)」)

  Nでも:例示・極端な例

  一つの用法は、いくつかの可能性の中から、一つを取り出して、軽い提案と

  して例示するような場(chǎng)合に使います。

  お茶でもいかがですか。

  明日にでも聞いてみましょう。

  彼女にでも頼んでみたら?

  散歩にでも行きませんか。

  じゃあ、新聞でも見(jiàn)て(時(shí)間をつぶして)います。

  「例示」でなく、それ以外の可能性を考えていない場(chǎng)合は「和らげ」の効果

  が出ます。

  それはねえ、その棚にでも置いといて。

  この「Nでも」の用法は文末に特徴があります。「勧め」「命令」「意志」

  などの「ムード」が來(lái)ることが多いのです。相手への要求などの直接さを和ら

  げるために「例示」という意味合いが使われるのでしょう。

  すぐ前でとりあげた「など」も例示の意味がありますが、この點(diǎn)で大きく違

  います。

  次に、もう一つの用法、「極端な例」の「Nでも」について考えましょう。

  こんなことは、小學(xué)生でもわかります。

  この「小學(xué)生」は、述語(yǔ)の「わかる」ということが成り立つ低い方の例です。

  この問(wèn)題は、専門の研究者でもわかりません。

  この「研究者」は、「わかる」可能性がもっとも高い方の例として使われてい

  ます。

  これらの例からわかるように、「Nでも」は、述語(yǔ)の內(nèi)容が成り立つ補(bǔ)語(yǔ)の

  中で極端な例を出して、その場(chǎng)合に述語(yǔ)で表されるような內(nèi)容が成り立つこと

  と、それ以上に「ふつうの例ではもちろん~」という意味を表します。

  ですから、上の「小學(xué)生」の例が言いたいことは、「これは誰(shuí)でもわかる、

  やさしいことだ」ということか、あるいは、「それなのにどうしてあなたはわ

  からないのか」というような、狀況から推論されうる意味であるかもしれませ

  ん。どちらにしても、「小學(xué)生にわかる」ことが中心的な意味ではありません。

  難しい仕事でもやります。(Nを)

  このロボットは狹いところにでも入ります。

  參加者はかなり遠(yuǎn)くからでもやってきます。

  あの人は臺(tái)風(fēng)の日でも休みません。

  なお、「疑問(wèn)語(yǔ)」についた場(chǎng)合の「いつでも・どこでも・だれでも」などは

  「不定語(yǔ)」として別に考えました。(→「16.疑問(wèn)語(yǔ)・不定語(yǔ)」)條件の「~

  ても」で述語(yǔ)が「Nだ」の場(chǎng)合、「Nでも」の形になります。

  教師が休みでも、學(xué)生は自分でよく勉強(qiáng)します。

  この「極端な例」の「Nでも」は、くだけた話しことばで「Nだって」と言

  うことができます。

  あたしだってそのぐらいできるわよ。

  うちの會(huì)社は日曜だって呼び出すんだぜ。

  どんなところにだって行けるさ。

  ここからだって2時(shí)間で著くよ。

  Nまで:極端な例

  格助詞の「まで」は時(shí)間と場(chǎng)所の範(fàn)囲を示しますが、この「まで」は、極端

  な例を表します。他の人・ものに関してその述語(yǔ)の內(nèi)容が起こり、いちばん起

  こりそうもないNにそのことが起こったことを表します。

  私まで間違ってしまいました。

  皿まで食べてしまった。

  彼女にまでそんなことを言われました。

  外國(guó)へまで行って探しました。

  夜中にまで電話をかけてきます。

  「で」と「から」とは使いにくいようです。

  ?ヘリコプターでまで探した。

  ?外國(guó)からまで見(jiàn)學(xué)客がきます。

  もちろん「まで」も。

  ×屋上までまで上りました。(cf. どこまでも行こう。)

  「も」「は」とともに使えます!袱蓼扦狻工稀袱蓼恰工螐(qiáng)め、「までは」

  は否定とともに使われます。

  あなたまでも(が)そんなことを考えているんですか。

  子どもにまでは頼めなかった。

  Nさえ

  「Aさえ~」というとき、ほかのBやCは「當(dāng)然~」という前提があります。

  あの人さえ失敗しました。

  子供にさえ分かることです。

  これさえ分かれば、全部できます。

  私でさえ、そう思いました。(私が~)

  最後の「Nでさえ」という形は、「さえ」の特別な形です。主體の「Nが」

  がなぜか「Nでさえ」になります。

  東京駅からでさえ、3時(shí)間かかります。

  「Nからだ+さえ」と考えればいいのでしょうか。よくわかりません。

  「さえも」はよく使われますが、「×さえは」とは言いません。

  小さなことさえもよく覚えていた。

  小さなことさえ忘れなかった。(×さえは)

  Nこそ

  「ほかのものでなく、これが」という気持を強(qiáng)調(diào)するために使います。多く

  の場(chǎng)合、前に話に出た何かよりもこちらのほうが、という言い方になります。

  こちらこそ、失禮しました。

  これこそ(が)問(wèn)題です。

  あなたこそ反省すべきです。

  こういう苦しいとき(に)こそ、がんばらなければ。

  今こそ立ち上がりましょう。

  この賞は私などよりも彼女にこそ與えられるべきだ。

  會(huì)社より病院へこそ行くべきだ。

  Nも

  「も」は用法の多い助詞です。名詞文(2.3)で最初にとりあげた、

  これは山田さんのです。あれも山田さんのです。

  という使い方が基本的なもので、他のことと同様のことが言えることを表しま

  す。そこでは、

  ?彼はテニス部だ。彼も文蕓部だ。

  という例をあげて、「Nも」は「同じ內(nèi)容の述語(yǔ)が続くとき」使われる、とし

  ましたが、実際にはもう少し広く使われます。

  彼は運(yùn)動(dòng)も好きだ。小説もよく読む。

  のように、「運(yùn)動(dòng)が好きだ」と「小説をよく読む」が類似のこととしてとらえ

  られる文脈では、述語(yǔ)が同じでなくても「Nも」が使われます。また、「運(yùn)動(dòng)

  が」と「小説を」のように、補(bǔ)語(yǔ)としては違うものでも「も」がつけられてい

  ます。これは、見(jiàn)方を変えれば、「運(yùn)動(dòng)が好きだ」に対して「小説をよく読む」

  全體を範(fàn)囲として「も」がつけられている、とも言えます。

  同類のものをあげていって、極端なものに及ぶことがあります。

  彼は昆蟲(chóng)が好きだ。ナメクジやムカデも好きだ。ゴキブリも好きだ。

  後の「Nも」は「Nまで」や「Nさえ」のほうがいいかもしれません。

  この極端な例だけを示して、他の一般的なものは當(dāng)然、という用法になりま

  す。

  王・長(zhǎng)島もびっくりするような天才打者が現(xiàn)れた。

  ことわざや慣用的表現(xiàn)に多く見(jiàn)られます。

  馬子にも衣裝

  サルも木から落ちる

  この「極端な例+モ」は否定の「-ない」と共に使われることが多く、極端

  なものが該當(dāng)しない、ということは一般のものはもちろん該當(dāng)しない、つまり

  は何も該當(dāng)するものはない、ということになります。

  ご飯も炊けない。

  ということは、他のもっとまともな料理は何もできない、ということです。

  ひらがなも読めません。

  小學(xué)校も行きませんでした。

  その他に、「詠嘆のモ」と言われる用法があります。

  巨人も弱くなったねえ。

  この場(chǎng)合、他にも弱くなったチームがあって(例えば阪神)、それと同じよ

  うに、というわけではありません。たんにそのNについて、述語(yǔ)が表す內(nèi)容が

  起こったことを(軽く)詠嘆的に述べているだけです。

  俺も年をとったなあ。

  あんたも馬鹿だねえ。

  秋もようやく深まって、・・・

  [數(shù)量+も]

  以下では數(shù)量に関わる用法について述べます。

  「數(shù)量+も」は肯定文の場(chǎng)合、數(shù)量の多さを強(qiáng)調(diào)します。

  百人も來(lái)ました。(百人來(lái)た。百という數(shù)はとても大きい)

  述語(yǔ)が否定の場(chǎng)合は微妙な意味になります。

  百人も來(lái)ませんでした。

  は二つの意味になります。

  a 會(huì)員二百人のうち百人が來(lái)なかった(欠席者が多い)

  b 百人ぐらいと予想したが、90人ぐらいしか來(lái)なかった

  aは「百人も」が數(shù)の多さを表します。その數(shù)が「來(lái)なかった」のです。そ

  れに対してbは、「百人來(lái)る」ということがなかった、ということで、「百人」

  という數(shù)自體も少ない數(shù)という含みがあります。

  このaとbのどちらの意味になるかは、文脈と常識(shí)によります。

  1時(shí)間も待てません。

  の場(chǎng)合はどうでしょうか。ふつうは上のaと同じで、「私は忙しいんだ。30分

  しか待てない」という場(chǎng)合が多いでしょうが、「ふつうは何日も待つ」という

  のが常識(shí)であるなら、bの意味にもなります。

  他の人は何時(shí)間でも待つのに、あの人は1時(shí)間も待てないんです。

  「1+も ・・・ない」は、「まったくない」ことを強(qiáng)調(diào)する文型です。

  一人もいません。(ぜんぜんいない)

  一円も出しません。(「けちだ」という意味合い)

  1秒も違いません。

  「數(shù)+も」で大體の量を表すことがあります。なぜか斷定の文では言えず、

  推量・條件節(jié)などと共に使われる場(chǎng)合にこの意味になります。

  1時(shí)間も立っていたでしょうか。

  2時(shí)間もすれば、明るくなりますよ。

  なお、「食べもしない」のように述語(yǔ)に「も」がつく例は、「28.3 形式動(dòng)

  詞」のところでふれます。

  Nは

  「は」は「も」以上に基本的な助詞で、日本語(yǔ)の構(gòu)文の中心的存在です。

  「Nは」の主題の用法も、広い意味で言えば副助詞としての用法に入ります。

  ただ、「主題」ということがあまりにも重要な用法なので、ふつうは別に考え

  ます!钢黝}助詞」として別の分類をする考え方もあります。

  主題を示す用法は「9.「は」について」でくわしく見(jiàn)たので、ここでは數(shù)量

  に関する用法などをとりあげます。

  2千人は來(lái)ました。 (少なくとも2千人 最小限)

  3千人は來(lái)なかった。(3千人未満、しかしそれに近い數(shù))

  「は」には対比の意味があるので、肯定文ではその數(shù)を肯定し、それより大

  きい數(shù)(例えば3千)の否定を暗示します。否定文ではその數(shù)を否定しますが、

  それよりずっと小さい數(shù)(例えば2千)の存在を暗示します。

  1時(shí)間は待てません。(最大限を越える)

  ただし、文脈から指示対象がわかる場(chǎng)合(その三人、など)は、

  結(jié)局、3人は來(lái)なかった。

  「來(lái)なかった」人數(shù)が「3人」です。

  ですから、全體が決まっていて、その部分を言う場(chǎng)合、上の「Nも」に似た

  ことが起こります。

  4分の1は読めません。(常用漢字など二千字の表があって)

  というと、二つの意味にとれます。

  a.読めるのは4分の1より少ない

  b.読めないのが4分の1ある(4分の3が読める)

  「は」には、このほかにもいろいろ用法があります。

  副詞に付く「は」は、次のように限定を表します。

  英語(yǔ)は少しはわかります。

  しばらくは仕事を休んで、のんびりします。

  「は」は否定とともによく使われます。これは否定のところでまた觸れます。

  早くは走りません。

  ?早くは走ります。

  「美しくはある」のように述語(yǔ)に「は」がつく例は、「28.3 形式動(dòng)詞」の

  ところでふれます。

  副助詞の重なり

  副助詞どうしが重なる場(chǎng)合を見(jiàn)てみます。まず、「は」は多くの副助詞につ

  くことができます。

  名前だけは覚えました。

  こればかりはご勘弁を。

  足し算くらいはなんとかできます。

  あの人ほどはひどくありません。

  こんな問(wèn)題などは朝飯前です。

  ワインなどはいかがですか。

  お金のことまでは考えませんでした。

  今度こそはがんばります。

  こうしてみると、やはり「は」はちょっと特別だという感じがします。

  「も」は多くありません。すでに觸れた「Nまでも」「Nさえも」だけです。

  文庫(kù)や新書などもありました。

  の「など」は接辭と考えられます。

  臺(tái)灣などにも時(shí)々出かけます。

  となると副助詞と言えるでしょうか。

  その他の副助詞同士では、次のような例があります。

  これぐらいしかありません。

  今の円高くらいでも影響は大きいです。

【日語(yǔ)副助詞的歸納總結(jié)】相關(guān)文章:

日語(yǔ)格助詞的重點(diǎn)用法06-12

日語(yǔ)助詞的特殊用法06-17

日語(yǔ)口語(yǔ)中常出現(xiàn)的終助詞09-05

日語(yǔ)助詞特殊用法教程07-09

日語(yǔ)助詞ても的用法10-04

日語(yǔ)初級(jí)語(yǔ)法:助詞 “で” 的用法08-12

日語(yǔ)助詞入門基本知識(shí)01-22

日語(yǔ)學(xué)習(xí)之補(bǔ)格助詞“に”的用法05-09

日語(yǔ)接續(xù)詞和接續(xù)助詞的用法09-13

「に」的復(fù)合格助詞10-24